私は兵庫県にあるお寺に生まれた。山と川、お墓に囲まれて暮らすなかで、人間だけではなく自然に住む動植物の生死に触れながら育った。または仏教、あの世とこの世、魂と肉体について考える機会も多くあった。

祖母は茶道と日本舞踊や華道を人に教えており、子供ながらその場によく遊び心で入らせてもらっていた。そんな幼少期の体験が自身の死生観、侘び寂びに対する意識に影響を与えていると考える。

さて私たちの生きているこの宇宙は微風のような揺らぎによって生まれ、星々は超新星爆発をくり返し星のかけらは増え続けている。cp対称性のやぶれから3次元は生まれ物質は存在している。完璧な対称性は物質としては存在しないという。

時間というのは一つの概念である。クロノスとカイロス、神の名をもじった概念である。実態は掴めない。私たちはその時に、その一瞬にしか存在することが出来ない。撮影行為から生まれる「写真」とは何か、その刹那の記録である。

一般的には数秒から数分の、絵画よりもずっと短い時間の。絵画は時間の芸術である。撮影行為は一瞬を古くならない新しい時に変換する。3次元以上の空間を2次元に変換して新しいマテリアルを創造する。

写真とは画像である、画像とは特定の視点の説明であり、視点とは観測者の心理描写とも言える。心≒意思・意識は量子の動きからなる観測可能な未来と相関関係にあり、波動関数は観測者の意思が観測結果を変化させる因子の一つであると示している。俗に言う相対性理論の基礎方程式の一つである。シュレディンガーの猫である。心≒意思・意識のあり方が量子的な空間であるこの世界における観測結果において大きな要因になるということは写真においても同様のことが言える。写真は心を写す鏡であると写真家の上田義彦氏は述べられている。

家族とはいつ終わるのか、人は死んだらどうなるのか。あの世とこの世とは、物質とはおばけとは。息子の問いに頭を悩ませた。おそらく何気ない言葉、何気ない問いである。私自身も幼少期に同じように父に問いかけた。そして大人になり仏教と量子力学の相似性を学びその考えを基礎に写真を撮っている。

おおまかに言うと色即是空であり諸行無常な世界に生きているという認知のもとに生活をしている。宇宙開闢からこの世界の素粒子の数はおおよそ一定で、心のあり方により形を変え続けている状態である。

概念とは何か、生きているとはどういうことか。養老孟司氏はこの世に一つとして「同じ」というものはないと述べられている。同じりんごはない。同じ花はない。人間もそう。「同じ」と言うのは概念であり、概念とは情報である。生きているもの、ことが情報に変わった瞬間に「生」は動きを止めて無二性は失われる。分離的、離散的な知覚である。生物が情報に置き換わった時、それは無感情な爆撃のまたは銃撃の対象となりえる。SNS上の誹謗中傷もそうである。

この世界はアナログであり地球は宇宙の一部である。人間は地球の一部である。この世界はフラクタル構造を成している。人間の身体は地球と同じ構造を持っている。
フラクタル理論とは、「部分は全体であり、全体は部分である」ということ、たとえば立ち木は軸となる太い幹から枝が広がり、その枝からさらに細い枝が分派し、先端に葉を茂らせている。その立ち木から太い枝を一本伐りとっても、太い枝からさらに細い枝を一本伐りとっても、それらの枝のかたちは立ち木全体の姿と相似形を成す。一枚の葉っぱも同様である。樹枝状に張り巡らされている葉脈の構造を見ると、やはり立ち木全体の姿と相似形となっている。このように、ある図形がどこまで分割されてもその小さな「部分」に「全体」と同様のかたちが現れる理論を「フラクタル(自己相似形)」と呼ぶ。「部分は全体であり、全体は部分である」。このフラクタル理論は「人間」と「地球」にもあてはまる。人間の体重に占める約7割は水分であり、地球の表面積に占める約7割は海。ともに「水」が7割というのは、重量と面積の違いはあるにしても、なにか意味があるように感じる。これをフラクタル理論に強引にあてはめると、「人間は地球であり、地球は人間である」ということが言える。

実際に38億年前から今日に至るまで全宇宙はアナログ的に繋がっていてその空間同士は非局在性・不離不可分の世界である。恐竜やマンモスの吸った空気を構成した素粒子を今も私たちは吸っているのである。人間以外の生物は自然と直接的に接続しているが、人間は言語を使用するため概念という中間緩衝領域を持っており視覚情報からは1割程度であとは脳内の記憶等9割を使用し脳内に画像を生成している。ペリーの黒船は庶民には見えなかったらしい。

私たちは今この時にしか生きられない。生物学者の福岡伸一氏の言葉を忘れられない。カズオイシグロノ氏の小説のことも。細胞は毎瞬入れ替わる。その人物を同一と定義しうるのは朧げな記憶だけだ。私たちはこの一瞬にしか生きられない完全に同一なカタチでは。車の助手席に乗っていた友人が同じ景色というものは存在しないと呟いたことを強く記憶している。生きることは情報の記録ではない。生きることは感情の記憶である。

ジョンレノンは歌った、想像してごらんと。私は写真行為を通じて示したい。この世界はあなたが思えば、その通りに動いていくと。今日のデジタル社会は離散的である。分離、分裂が進み、「生」が情報化し概念化することで戦争、環境破壊、人間同士の不和は加速していく。

私は社会におけるアートの役割は構造に対する認知へ揺さぶりをかけることと捉えている。よって私は強く言いたい。社会・産業構造がいくらデジタル化してもこの世界はアナログに繋がっていると。全ての生命は無二であり。存在することはただただ尊いと。

私は写真を撮り、世界と関わり、展示・展開することで生命の尊厳が尊重されることを祈り、そこで産まれたこの写真というオブジェクトが谷川俊太郎氏の詩のように、見た人の琴線に触れて、心に寄り添っていくことを願っている。